楽譜通りに弾くだけだった私が、「音の裏側」を感じ取ることで演奏に深みが出た話
楽譜は読める。でも、それだけでは物足りない感覚
学生時代から楽器を続けていますが、社会人になってからは練習時間の確保も難しくなり、以前のように思うままに演奏できないことへの歯がゆさを感じることもありました。特に悩んでいたのは、「楽譜に書かれている音符や記号は正確に追えるのに、どうも自分の演奏に『深み』がない」という感覚です。
楽譜通りに弾くことは、演奏の基礎として非常に重要です。音符の長さ、強弱記号、速度指示など、作曲家が意図したであろう基本的な情報を正確に再現することを目指して、日々練習に取り組んできました。しかし、どんなに正確に弾けても、自分自身が「これで良い」と心から思えない。プロの演奏を聴くと、同じ楽譜を使っているはずなのに、なぜこんなにも表現が豊かで、聴く人の心に響くのだろうか、と感じていました。
自分の演奏は、まるで機械が音を鳴らしているような、あるいは教科書を棒読みしているような、どこか無機質なものに感じられていたのです。どうすれば、音に感情やニュアンスを乗せることができるのか。楽譜に書かれていない「行間」のようなものを、どう表現すればいいのか。その方法が全く分からず、自分の音楽的センスのなさ、表現力の乏しさにコンプレックスを感じていました。
「音の裏側」を意識するようになったきっかけ
そんな悩みを抱えていたある日、尊敬する演奏家のライブを聴きに行った時のことです。その方は、複雑なパッセージを正確に弾くだけでなく、一つ一つの音に意味を持たせているように感じられました。同じメロディーでも、繰り返されるたびに表情が変わり、強弱や間の取り方、音色が絶妙に変化していくのです。それは、単に楽譜を再現しているのではなく、その演奏家自身の解釈や感情を通して、音楽が「語りかけてくる」ような体験でした。
その時、私はハッと気づかされました。私がこれまで見ていたのは、楽譜という設計図の「表面」だけだったのではないか、と。楽譜に書かれた音符や記号は、音楽を表現するための最低限の情報であって、その「裏側」には、作曲家の置かれた状況、その時代の空気、そしてその音に込められたであろう感情や情景といった、読み取るべき要素が隠されているのかもしれない。そして、演奏家はその「裏側」を感じ取り、自分自身のフィルターを通して音にするのだ、と。
楽譜との向き合い方、そして練習方法の変化
この気づきから、私の楽譜との向き合い方、そして日々の練習方法が大きく変わりました。
まず、楽譜を前にしたとき、以前のようにすぐに楽器を手に取って弾き始めるのではなく、しばらく楽譜を「読む」時間を設けるようになりました。単に音符を確認するのではなく、使われているコード進行から感じる響き、メロディーの形が持つ感情的な意味、繰り返し出てくるモチーフが何を示唆しているのか、といったことを考えるようになったのです。もし歌詞がある曲なら、歌詞の内容を深く読み込み、その言葉にならない部分を音でどう表現するかを想像しました。可能であれば、作曲家について調べたり、その曲が作られた背景を知ることも、音楽の「裏側」を感じ取る上で大きな助けとなりました。
次に、同じ曲の複数の演奏を聴き比べるようになりました。以前は「上手い演奏」を探して漫然と聴いていましたが、意識を変えてからは、演奏家によってどのように表現が違うのか、どこにその人らしさが出ているのか、といった点に注目して聴くようになったのです。同じ楽譜なのに、こんなにも多様な解釈があるのか、と驚きの連続でした。これは、自分自身の演奏表現の可能性を広げる上で非常に参考になりました。
そして、楽器を使った練習では、「正確に弾く」という目標に加え、「どう表現するか」という意識を明確に持つようになりました。例えば、あるメロディーを弾くときに、以前はただ音符を並べていたものを、「この部分は寂しさを表現したいから、少し遅めに、音量を小さく弾いてみよう」「次の部分は希望を表したいから、少しずつ強く、明るい音色で弾いてみよう」のように、具体的な表現のイメージを持って試すようになったのです。強弱、速度、音色、間の取り方など、楽譜に書かれていない要素を意識的にコントロールする練習を取り入れました。
自分の演奏を録音して聴くことも、以前にも増して重要視するようになりました。これまではミスがないかどうかのチェックが中心でしたが、今は「自分が意図した表現ができているか」「聴き手にどう伝わるか」という視点で聴くようにしています。客観的に自分の音を聴くのは時に厳しい作業ですが、表現の意図が伝わらない部分や、もっと工夫できる点が見えてくるため、非常に効果的な練習になりました。
演奏に深みが生まれ、音楽がもっと好きになった
これらの取り組みを通して、私の演奏は少しずつ変化していきました。楽譜の音符を追うだけの機械的な演奏から、そこに自分自身の解釈や感情が加わった、生きた音楽へと変わっていったのです。
もちろん、最初からうまくできたわけではありません。イメージ通りに音が出せなかったり、何を試していいか分からなくなったり、試行錯誤の連続でした。しかし、「正解」は一つではない、自分なりの表現を見つけることが大切なんだ、と思えるようになったことで、失敗を恐れずに様々な表現を試せるようになりました。
演奏に深みが生まれたことで、音楽を演奏すること自体が以前よりもずっと楽しく、やりがいのあるものになりました。一つの音、一つのフレーズに込められた意味や感情を深く考えるプロセスは、演奏技術の向上とはまた違った喜びを与えてくれます。そして、自分の演奏を通じて、聴き手に何かを伝えることができるかもしれない、という希望を持つこともできるようになりました。
この経験は、演奏だけでなく、仕事や人間関係においても影響を与えています。目の前の情報だけでなく、その背景にある文脈や相手の感情を読み取ろうと意識するようになりました。表面的なことだけでなく、物事の本質や深い意味を探求することの大切さを、演奏が教えてくれたように感じています。
もし今、「楽譜通りには弾けるけど、自分の演奏に色がなくて悩んでいる」「どうすればもっと表現豊かに弾けるようになるか分からない」と感じている方がいらっしゃるなら、ぜひ一度、楽譜の「音の裏側」に耳を澄ませてみてください。作曲家がその音に込めた想い、そしてあなた自身の内側にある感情やイメージ。それらに意識を向けることで、きっとあなたの演奏は、より深く、あなたらしい輝きを放つようになるはずです。