「完璧に弾くこと」が目的だった私が、演奏で「表現する」喜びを知るまで
はじめに
楽器を演奏する多くの方が、「上手くなりたい」という気持ちを強く持っていることと思います。私もそうでした。特に社会人になり、練習時間の確保が難しくなる中で、短い時間で最大限の効果を得ようと、効率や正確性を重視するようになりました。いつしか私の練習は、「楽譜通りに、ミスタッチなく、正確なリズムで弾く」という、「完璧に弾くこと」だけが目的になっていたように思います。
しかし、どれだけ正確に弾けても、自分の演奏に何か物足りなさを感じることが増えていきました。技術的には以前より上達しているはずなのに、聴いている人の心に響いている実感がない。自分自身も、演奏していて心の底から楽しいと思えない。そんな悩みに直面し、演奏に対するモチベーションを失いかけていた時期がありました。
「完璧」だけでは満たされなかった理由
「完璧に弾くこと」を目指すのは、間違いではありません。正確な技術は、音楽を表現するための土台となるものです。しかし、当時の私はその土台を築くことに終始し、その先に何があるのかを見失っていたのです。
なぜ完璧を目指したのかを振り返ってみると、そこにはいくつかの理由があったように思います。一つは、失敗への恐れです。ミスタッチやリズムのずれを極端に恐れ、それがない状態こそが良い演奏だと考えていました。また、他人からの評価も気にしていました。「正確だね」「安定しているね」と言われることに価値を見出し、そう言われるための演奏をしていた側面もあったかもしれません。
その結果、私の演奏は硬くなり、感情がこもっていない、ただ音が並んでいるだけのものになってしまいました。聴いている人から「上手いとは思うけど、何か響いてこないね」と言われたときは、大きなショックを受けました。それはまさに、自分が薄々感じていた物足りなさを突きつけられた瞬間でした。
転機となった出会い
そんな状態から抜け出すきっかけとなったのは、あるジャズピアニストのライブ音源でした。クラシック畑で育った私にとって、ジャズの演奏は予測不能で、時に「間違っているのでは?」と感じるような音もありました。しかし、そこには技術的な正確さを超えた、演奏者自身の感情や物語が強く感じられたのです。音が生きている、と初めて感じました。
その演奏を聴いて、私の「良い演奏」に対する価値観が大きく揺さぶられました。「完璧に弾くこと」だけが良い演奏なのではない。音楽は、演奏を通して何かを「表現する」ことなのだと、頭ではなく心で理解できた気がしました。
「表現する」ための練習へ
この気づきを得てから、私の演奏に対する向き合い方は少しずつ変化していきました。「どうすれば完璧に弾けるか」ではなく、「どうすればこの曲の感情や物語を表現できるか」を考えるようになったのです。
具体的な練習方法も変わりました。
- 楽譜の先の背景を考える: 曲が作られた時代背景、作曲家がどんな思いでこの曲を書いたのか、歌詞がある曲ならその意味などを調べるようになりました。
- フレーズごとに「歌う」: 声に出してメロディーを歌ったり、心の中で歌いながら弾いたりすることで、ブレスや抑揚を意識するようになりました。
- 「音色」を意識する: 同じ音でも、弾き方やタッチによって様々な音色があることに気づき、表現したい感情に合わせて音色を作り分ける練習を始めました。
- 録音の活用法を変える: 以前はミスタッチがないかを確認するために録音していましたが、今度は自分の演奏からどんな感情が伝わってくるか、歌えているか、構成が分かりやすいかといった「表現」の視点で聴き直すようになりました。
- 他の演奏を分析する: 好きな演奏家の演奏を聴く際に、技術だけでなく、その人が何を表現しようとしているのか、どのように音色や間の取り方を使っているのかを意識するようになりました。
これらの練習は、すぐに効果が出るものではありませんでした。むしろ、表現しようと試みるほど、自分の技術が追いつかないと感じることもありました。しかし、「完璧でなくても良いから、この部分の悲しみを表現したい」「このフレーズを聴く人に届けたい」という明確な目的ができたことで、練習に対する意欲が再び湧いてきたのです。
演奏が私にもたらしたもの
「表現する」ことを意識し始めてから、私の演奏は変わり始めました。音に温度や色が付いたような、生き生きとした響きが出るようになったと感じています。以前は私の演奏を聴いても無反応だった友人から、「今の演奏、すごく感動したよ」と言われたときは、本当に嬉しかったです。
そして何より、演奏することが再び心から楽しいと思えるようになりました。完璧でなくても、自分の感情や思いを音に乗せることができた瞬間の喜びは、何物にも代えがたいものです。
この変化は、演奏だけにとどまりませんでした。自分の感情に蓋をせず、表現することの大切さを知ったことは、日々のコミュニケーションや仕事でのプレゼンテーションなど、様々な場面で活かされています。完璧を目指すことよりも、自分が何を伝えたいのか、どうありたいのかを大切にできるようになり、自己肯定感も高まったように感じています。
最後に
もしあなたが今、「練習しているのに上達している気がしない」「自分の演奏に満足できない」「何のために演奏しているか分からない」といった悩みを抱えているのだとしたら、それはもしかすると、かつての私のように「完璧に弾くこと」に囚われすぎているからかもしれません。
技術を磨くことは大切ですが、それはあくまで音楽を表現するための手段です。あなたがその曲を通して何を伝えたいのか、どんな感情を共有したいのか、そこに意識を向けてみてはいかがでしょうか。完璧でなくても、あなたの心が動いた音は、きっと聴く人の心にも響くはずです。
演奏は、自分自身を表現する素晴らしい方法です。あなたの内側にある感情や思いを音に乗せて、あなただけの音楽を奏でてください。その過程で得られる気づきや喜びは、きっとあなたの人生をより豊かなものにしてくれるでしょう。