「自分の感情が分からない」演奏が教えてくれた、内面との向き合い方
演奏はできるけれど、心が見えない
楽譜通りに正確に弾くことはできても、どこか自分の演奏に「色」がない、心が入っていないと感じていました。聴いている人からも「上手だけど、もっと気持ちが入るといいね」と言われることがあり、それが大きなコンプレックスになっていました。
特に社会人になってからは、仕事では論理や効率が重視され、感情を表に出す機会は減りました。それに伴って、日常生活でも自分の本当の感情がよく分からなくなることが増え、演奏で感情を表現しようとしても、何をどう表現すれば良いのか途方に暮れてしまうようになりました。自分の内側にあるものが、まるで凍りついてしまったような感覚でした。
内面に「耳を澄ませる」ことの難しさ
演奏で感情を表現するためには、まず自分自身の内面にある感情に気づき、それを理解する必要がある。頭ではそう理解していました。しかし、具体的にどうすれば良いのかが分かりませんでした。
これまでの練習は、指の動きや音程、リズムといった物理的な側面に終始していました。どうすればもっと滑らかに弾けるか、どうすればもっと速く弾けるか、どうすればミスなく弾けるか。技術的な課題と向き合うことは得意でしたが、「自分の心と向き合う」という課題は、あまりにも抽象的で、どこから手をつければ良いのか全く見えませんでした。
まるで、目に見えない幽霊を捕まえようとしているような感覚です。普段、感情に蓋をして生活している自分にとって、急に「さあ、感情を感じてみましょう」と言われても、それはとても難しいことでした。演奏中に「悲しい気持ちで弾いてみよう」と思っても、頭で「悲しい」という概念を理解しているだけで、実際に心がどう動いているのかを感じ取ることができなかったのです。
「なぜ、この音を出すんだろう?」問いかけから始まった変化
そんな停滞期を抜け出すきっかけになったのは、あるとき、演奏中に「なぜ、自分は今、この音を出すんだろう?」と、ふと自問自答してみたことでした。
それは、技術的な指示や楽譜に書かれた強弱記号とは関係なく、その瞬間に自分がその音にどんな「意味」や「感情」を感じるか、という、ごく個人的な問いかけでした。
例えば、あるフレーズの最後の音が長く伸びるとします。これまでは「伸ばす」という指示通りに弾いていましたが、そのとき「この音は、どんな気持ちで伸ばしたいんだろう?」と考えてみました。「何かを失った寂しさ?」「遠くへの憧れ?」「単なる終わりの合図?」…どんな答えでも良い。ただ、その音に対して自分が感じる「何か」に意識を向けてみたのです。
最初はぎこちなく、すぐに答えが見つかるわけではありませんでした。それでも、一つの音、一つのフレーズに対して、技術だけでなく「心」の側面からアプローチしてみることを意識的に続けました。練習ノートに、その日弾いた曲の一節に対して感じたこと、湧き上がった感情を書き留めてみることも始めました。
演奏が「内面を映す鏡」になる
この「内面に問いかける」練習を続けるうちに、少しずつ変化が現れました。
これまで意識していなかった、自分の心の動きの微細な変化に気づけるようになったのです。ある日は疲れていて音色が暗くなる、別の日は少し嬉しいことがあって軽やかな音になる。その日の体調や気分だけでなく、曲の背景や歌詞(器楽曲でもイメージとして)に対する自分の内面的な反応が、少しずつ音に反映されるようになってきました。
演奏が、まるで自分の内面を映し出す鏡のようになっていったのです。技術的な課題に加えて、「今日はこのフレーズを、もう少し優しく弾きたいな」「ここは怒りの感情を込めてみよう」といった、感情やイメージに基づいた演奏の方向性が明確になってきました。
楽譜通りに正確に弾くことはもちろん大切ですが、それだけでは表現できない「何か」が、自分の内面から生まれてくることを実感しました。それは、他の誰かの真似ではなく、自分だけの音色であり、表現でした。
演奏で得た「自分との対話」の習慣
演奏を通じて内面と向き合う習慣は、演奏そのものをより豊かなものにしてくれただけでなく、私の日常生活や仕事における自己理解にも影響を与えました。
これまで見て見ぬふりをしていた自分の感情や、「なぜ自分はこう感じるのだろう?」といった問いかけを、恐れずにできるようになりました。仕事でストレスを感じたとき、人間関係で悩んだときも、その感情に蓋をするのではなく、「あ、自分は今、こう感じているんだな」と一度立ち止まって受け止められるようになったのです。
演奏の練習時間が、単に技術を磨く時間から、「自分自身と対話する」大切な時間へと変わりました。この変化は、私に本当の自己肯定感を与えてくれたと感じています。完璧な演奏ができなくても、ありのままの自分の内面を音に乗せることができたとき、深い満足感と自信を感じられるようになりました。
「自分の感情が分からない」と悩んでいた私ですが、演奏がその扉を開けてくれました。もしあなたが、演奏で感情を表現することに難しさを感じているとしたら、それはもしかすると、自分自身の内面に「耳を澄ませる」ことから始まるのかもしれません。完璧を目指すのではなく、まずは一つの音、一つのフレーズから、自分自身の心にそっと問いかけてみる。その小さな一歩が、あなたの演奏と、そしてあなた自身を、きっと変えてくれるはずです。